なぜ「ベクトル空間」を公理で定義するのか ― 矢印から公理へ
高校で習う「矢印のベクトル」は,実はベクトル空間のほんの一例にすぎません.多項式や関数,行列までもがベクトル空間になる理由と,公理による定義の威力を具体例で実感します.
高校では,ベクトルは「大きさと向きを持つ矢印」と教わります.平面ベクトルを足したりスカラー倍したりする計算は,直感的でわかりやすいものでした.
ところが大学の線形代数では,いきなり8つの公理が並びます.
(加法の可換性)
(加法の結合性)
零ベクトル が存在して
各 に なる が存在
(スカラー倍の結合性)
(分配法則1)
(分配法則2)
こんなに仰々しい定義をする理由は何でしょうか?答えは「矢印以外にもベクトル空間はたくさんある」からです.
1 矢印の限界
高校の矢印ベクトルはやの元です.しかし現実の数学や物理では,もっと多様な対象を扱います.
2 公理を1つずつ味わう
8つの公理は多いように見えますが,実はとても自然なことを言っています.
公理1〜4は「加法がアーベル群をなす」ことを要求しています.ベクトルを足したり引いたりする操作が,順番を入れ替えても結果が同じで,零ベクトル(加法の単位元)と逆ベクトルがあるということです.
公理5〜6は「スカラー倍が体の掛け算と整合する」ことを言っています.倍してから倍するのと,最初から倍するのが同じ,というだけです.
公理7〜8は「足し算とスカラー倍が互いに仲良くする(分配法則)」ことを保証しています.
3 公理を削る実験
群論と同じように,公理を削ると何が起こるかを見てみましょう.
分配法則を外すとどうなるか? がなければ,スカラー倍と加法が無関係な操作になります.「倍して足す」のと「足してから倍する」が違う結果になり,連立方程式の係数を括りだすことすらできません.
加法の可換性を外すとどうなるか? 実はこれを外した構造(「加群」の非可換版)も数学では研究されていますが,行列の基本変形や掃き出し法といった線形代数の道具がほとんど使えなくなります.
4 部分空間 — ベクトル空間の中のベクトル空間
8つの公理をすべて確かめるのは大変です.しかし,すでにベクトル空間とわかっているの部分集合については,もっと少ない条件で済みます.
(零ベクトルを含む)
(加法で閉じる)
(スカラー倍で閉じる)
8つの公理が3つの条件に減りました! 残りの5つはから自動的に受け継がれます.
5 まとめ
ベクトル空間を8つの公理で定義するのは,「矢印」に限定せず,多項式・行列・関数といった多様な対象を同じ言語で統一的に扱うためです.この統一によって,行列の理論・連立方程式の解法・固有値問題などが,すべてベクトル空間の言葉で語れるようになります.線形代数の出発点は,この「公理による抽象化」にあるのです.